「バタフライ・エフェクト」
「林愛作」
画像引用元:https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E6%84%9B%E4%BD%9C
ライトが建築家として活動を始めた19世紀後半のシカゴでは日本美術の愛好家サークルが大変な盛り上がりをみせており、ライト自身もその大きな影響を受けました。その後ライトは浮世絵コレクターとなり、その時取引をしていたのがニューヨーク山中商会という日本の美術商。担当は若くして単身渡米し持ち前の才覚でニューヨーク社交界入りを果たした林愛作でした。ライト自身も気づいてはいませんでしたが、この時すでにバタフライ・エフェクトが起こっていたのです。
その後ライトは建築家として独立し数々の住宅建築で名を馳せる存在となったものの、20世紀のはじめにプライベートで問題を起こしてしまいスキャンダルの渦中の人となってしまいます。ついには事務所を閉め長い低迷期を迎えることとなりました。
激減した仕事と大きな精神的痛手を受けたライトに救いの手を差し延べたのはなんと林愛作。彼はあの後、実業家渋沢栄一の命を受けて首都東京の帝国ホテル総支配人となり辣腕を振るっていたのでした。林愛作はライトに帝国ホテル新館建設を打診したのです。ライトにとってはまさに「渡りに船」でした。この瞬間が日本に数棟のライト作品がもたらさせるきっかけとなったのです。
「建築プロデューサー林愛作の誕生」
帝国ホテル新館設計のために来日したライトに、もう一つの設計依頼が飛び込みました。林愛作の居宅の設計です。林愛作はライトと契約を結ぶにあたり何度か渡米したのですが、その最終確認で訪れたのがウィスコンシン州のライトの自邸「タリアセン」でした。そもそも林愛作は「家は人格の表現」という言葉を残しており、ライトがパートナーに相応しいかどうかの最終判断でタリアセンを訪れたと考えられています。そしてこの時夫婦そろって感銘を受け「神武天皇の時代に連れ戻されました」とライトに語りました。アメリカ人ライトに宿る日本の美を美術専門家として読み取ったのかもしれません。そしてこの時、林愛作はいずれ日本の郊外にタリアセンのような自邸を建てることがもう一つの夢となり、それが実現したのです。
「隠れた銘品、林愛作邸」
「林愛作邸玄関」
画像引用元:https://ameblo.jp/gayasan8560/entry-12487779103.html
林愛作邸は1917年(大正7年)に竣工。この時初めて日本の地にライト建築が誕生しました。完成した林愛作邸は、この頃のライトの作風「プレーリースタイル」に日本の伝統を持ち込んだ作品となっています。玄関車寄せは軒高が低く深いひさしを持つ方形屋根を重厚な石組の柱で支え、その両脇に狛犬を置く和洋折衷なスタイルで、斬新ながらも周囲の環境にとてもよく馴染んでいます。細長い縦型の窓が幾重にも並んだ居間の窓は、その一つ一つが軸を持ち回転する仕様で、斬新なデザインと機能の両立が図られています。また雨の多い日本の風土を考慮して雨戸も設けられており、その土地に応じた「有機的建築」を志す細やかさもみられます。居間はプレーリースタイルらしく屋根裏を排し、屋根の勾配に合わせた船底天井にすることで空間にゆとりが生み出されています。現在残されている林愛作邸はその後の所有者によるリフォームもあり、外観とこの居間だけが当時の面影を残すものとなっているそうです。林愛作はこの自邸を「朋来居」と名付け、普段は帝国ホテルに住みつつ週末はこの朋来居で休日を楽しみました。
「居間」
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その後林愛作はライトとともに帝国ホテル新館建設にいそしんでいましたが、新館建設の予算オーバーや工期の遅れ、さらには1922年(大正11年)の初代帝国ホテル本館失火で総支配人を辞職。後ろ盾を失ったライトも日本を離れることとなりました。志し半ばで日本を離れたライトですが、帝国ホテル新館は愛弟子の遠藤新が引き継ぐかたちで翌年竣工、さらに滞在中に請け負った「山邑家住宅(現在のヨドコウ迎賓館)」は施工管理を遠藤新と南信が担当し林愛作と語らいながら作業することで1924年竣工、林愛作が初代支配人をつとめた「甲子園ホテル(現在の武庫川女子大学甲子園会館)」はライトの遺伝子を持つ遠藤新設計で完成させるなど、林愛作はのちもまるでライト関連の建築プロデューサーのように活躍しました。
「旧甲子園ホテル」
画像引用元:https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/kenchiku/kenchiku_s01.html
「二人の友情の証が込められた場所」
林愛作は終戦直前まで香港ホテルの支配人をつとめるなど実業家としての活動をみせていましたが、終戦後はあまり情報がなく1951年(昭和26年)その生涯を終えています。ライトは戦後の日本の状況を知ったとき、かつて救いの手を差し伸べてくれた友人に250ドルの小切手を贈りました。戦災を乗り越え残った林愛作邸は、そんな二人の友情の証である大切な場所といえるかもしれません。
旧林愛作邸はその後、一般の公開がほとんどされないまま長い間大手広告代理店の厚生施設として利用されましたが、近年大手不動産ディベロッパーが権利を取得したとの報道がなされました。邸宅のある世田谷区からも保存の要望が出されています。ライトの日本における記念碑的作品が地上から消えることのないよう望むばかりです。
(文中敬称略しています)
- 電通八星苑(旧林愛作邸)
〒154-0012 東京都世田谷区駒沢1丁目1
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